ちらつく雪、視界を遮る呼気の白さ。しみしみと痛むような厳しい寒さの中で、なにをわざわざ朝っぱらから外で働かなくてはいかんのだ――。
今朝何度目かの身震いをしながらのしかかるような灰色の空を見上げ、ネーナは自分の腕を抱きしめるようにちぢこまる。接客の邪魔になるからと髪を結い上げたことが、心から悔やまれた。
「そろそろ開場だよ。営業、営業っ!」
その声に首だけ回して振り向くと、大テントの奥からパンパンに着膨れした中年の男がのそのそと品物をかきわけて外に出てくるところだった。その手からもうもうと湯気を上げる熱いコーヒーが入った真鍮のカップを受け取りつつ、ネーナは口を尖らせる。
「こんな寒い新年も二日目に、客なんてほんとに来るのかよ。しかもこんな、鍋だの釜だの干草だのを買いに」
「時代はかわったんだよ、ネーナ。魔導力の使い方も使い道も多様になったいま、潜在的な市場はもっと大きいはずだ! ただの鍋だの釜だのじゃないんだから、安心して売ってくれたまえ。その干草もね、ちゃんと東方からはるばるやってきた薬草だと説明しておくれよっ」
チョビ髭の端を丸めるようにして笑った男は、組合長、とテントの奥から呼ばれて立ち去った。
「……いまどき、触媒使う魔術師なんて少数派じゃないか」
ネーナは上司であり義父である男の丸々とした後ろ姿を見送り、ため息混じりにコーヒーの湯気を吹く。遠くで小さく鐘の音が響き、休日出勤の彼女に本日の始業を告げた。
大陸の西端にあって北は峻烈な山脈を望み、東は広大で肥沃な平野、南に穏やかな内海を擁する大国トランティア。偉大なる女王の統べる、長い歴史の証人。国の東西を貫く大交易路の出発点であり、終着点でもある王都トランティア・トリッタは、人口百六十万の巨大都市である。
多彩な人種と多様な価値観が交差するこの都には、実に多くの大陸一が存在する。
宗教施設の数、軍隊の規模、都中に張り巡らされた水路の総延長、駅馬車や郵便制度の充実でも一番といっていい。しかしトランティア人にあえて選べと迫ったなら、口をそろえてこういうだろう。
ここは大陸一の魔導都市だ、と。
トランティア魔導学院――在籍する十歳から二十二歳までの学生は、およそ五千人。教授・講師・職員の総数は八百人余。その経営は学院卒業生が多数加盟する魔術師組合が行い、宮城の実に半分にあたる広さの敷地を有し、宮城よりもたくさんの建物を抱えている。巨大な講堂、巨大な図書館、そして男女それぞれの巨大な学生寮群もそこにあった。
必要な単位を取得したらすぐ卒業してもかまわないし、専門課程に進んでもいい。在学中から軍にスカウトされる魔導士候補もいる。大抵は在籍できる二十二歳ギリギリまで学んで、卒業したら得意分野の資格をとって魔術師になる。軍属の魔導士以外を魔術師と呼び、その仕事は多岐に渡った。
黒地に金糸の縫い取りが施された服を着て、ピカピカに磨いたブーツをはいて街を闊歩しているえらそうなやつがいたら、それが魔術師だ。そして彼らが入り口の前で立ち止まり、身なりを確認してから入っていく建物があったら、それが泣く子も黙る魔術師組合なのである。
ネーナの義父が長を務め、彼女が日々勤労奉仕している場所であった。
開場の鐘とともになだれこんできた人々の中には、黒い制服姿の少年少女もちらほら見られた。休日でも学院の制服を着て歩くのは、それが彼らにとってステータスだからである。未来の魔術師らしく黒尽くめで飾りけのないデザインだが、それだけに晴れ着姿の人々の中でとても目立っていた。
彼らも何年かしたら、自分のところに薬草を煮る鍋を買いにくるにちがいない。たとえ今は目の前を素通りしていたとしても。
店先に置いた丸椅子の上で自分の膝に肘をつき、ネーナは行き交う人波を眺めていた。はるか東の空は薄日が差しているようにも見えたが、この宮城前広場には突き刺す寒さが居座っている。
「寒い……」
低いつぶやきは呼気に混じって舞い上がり、背後で鍋を磨いていた同僚の耳に届いたようだ。
「え? なにかいった、ネーナ?」
その、野太くも人のよさそうな明るい声に、ネーナは膝に肘をついたままグルンと振り返った。
「寒いよ、バニー。身も心も懐も。もっと上等なコート着てくればよかった、持ってないけど」
「もっと上等って……いま着てるので十分じゃないの」
そのあきれ声ももっともだ。ネーナがまとう黒いコートは、素人目にも高価に映る。光沢のある布は足首まで届く長さ、首元を飾る白い毛皮は、毛足は短くとも密に生え揃って冬の風にやわやわとそよいでいる。バニーが着ている組合支給の安物とは、暖かさも値段も桁がちがう、一介の団体職員には過ぎた品だった。
「それ以上なんていったら、組合長が鼻血を噴くわよ。せっかく買ってくれたのに」
小さく笑って、バニーは鍋磨きの作業に戻った。ネーナが抱えたら手が届くかどうかも怪しい直径の大鍋だが、バニーの前では小鍋に見える。やわらかな物腰と口調、優しげな声で話す彼は、小山のような体躯を誇る「身体が男、心は女」の複雑な人だった。
「くれっていったわけじゃないもん」
「あらぁ、すごく喜んだくせに。そんなこというと罰が当たるわよ」
「当ててみろっつんだ」
ごつい手で意外と繊細に隅々まで鍋を磨き上げる彼を眺めながら、ネーナが肘をついた姿勢のままカクカクと顎を動かす。
「仕事が終わったら黒山羊亭で一杯やろうよぉ。ていうかもう帰っちゃおうぜ、お客なんか来ないし。みんな闘技会がお目当てなんだし。ていうかわたしもそっち行きたいし」
言い終える前にバニーの向こうから咳払いが聞こえ、唇を尖らせ渋い顔の組合長が現れる。しかしネーナは動じることなく、義父の突き出たおなかを指で突ついた。
「やめなさいっ! 行かせてあげたいんだよ、ネーナ、私だって本当は! でもね、新年初日の朝のうちは出てきてくれる職員が少ないんだ、飲み明かしたまま来られても参っちゃうし……。それにうちは昼過ぎになると忙しくなるんだよ、魔術師どもは大抵宵っ張りだからね」
言い訳がましく釈明しながら、義父はがばっとばかりにネーナを頭から胸に抱きこんだ。冷たくなった布地が頬に押しつけられるわ、おっさん臭いわ、丸い腹でボンボン頭が跳ねるわ、ちょっとした虐待である。
「ちょ、っお、離せッ!!」
ネーナが渾身の力で突き飛ばすと、父は鞠のように弾んでバニーの背中にぶつかった。鋼の背筋に打ちつけたらしい背をさすり、それでもにこやかにいう。
「闘技会に行きたかったらさ、せめて誠意を見せてごらんよ。パパはネーナが喜んで労働する姿が見たいなぁ! たとえばほら、バーンのように鍋を磨くとか――」
「やだもぅ、組合長ったら! バニーって呼んでくださいッ」
恥じらうように身体をくねらせたバニーにさすっていた背中をどつかれ、組合長はたたらを踏んで商品の壷にしがみついた。そのままもろとも倒れそうになるのを必死でこらえ、壷の陰に隠れながら二人を睨む。
「と、とにかくそっちは裏口から入れるよう手配しておくから、休憩時間まではまじめに働いておくれよっ!」
言い放つと、組合長はそそくさとテントの奥に消えて行った。
トランティア魔術師組合といえば大陸最大の職業組合(ギルド)でもあるのに、その元締めときたら文字通り玉のようにコロコロとネーナたちに転がされている。
「まじめにって言われてもねぇ」
鼻の頭に皺を寄せ、唇を片端だけ吊り上げてつぶやくネーナの顔は、組合長でなくとも張り倒したくなるほど憎々しい。なまじもとの造作が悪くないだけ、目も当てらないほどの凶悪さだ。
「なぁに、今日はまた一段とご機嫌斜めなのね」
顔が映るほどピカピカに鍋を磨き終えたバニーが、次の獲物――計量スプーンともいう――を手に取りながら笑った。ドワーフから仕入れたアクセサリーやら、特級の認定を受けた職人の作品などは、テントの奥でケースにしまわれて組合長が見張っている。
通路際の店先に並んでいるのは、精々が物質界第一層第二位階までしか手の入れられていない安物だ。要するに表面だけちょこっと魔術で加工した、紛い物に近い。天然の魔導鉱製や、細工の法界深度の高いものは、目玉が飛び出て零れ落ちてもまだ足りないほど高価である。
もっとも、魔術師の末席、下の下の下くらいに名を連ねるネーナには、複雑怪奇で意味不明な魔導工学など、そもそもが理解の範疇のはるか先だ。
「ここんとこさぁ、夢見が悪いんだよね。なんかわけわかんない、黒いような赤いようなドロドロした夢見て、夜中に飛び起きんの。寝不足だよ」
目の下の隈を指差し、見ろとばかりに相棒を振り仰ぐ。仰がれたほうは、他人の分まで貼りつけたような極太眉毛を寄せた。
「あらまぁ。睡眠不足はお肌の大敵よぉ、今夜はゆっくり眠れるようにハーブティでも飲むといいわ」
言いながら、いそいそと陳列台の上の薬草を見繕い始める。東方からはるばるやってきたという、それは立派な売り物なのだが。
ネーナは軽く息をつき、再び丸椅子の上で通りに向き直る。人の流れは会場の中央に向かっていて、今日この催事場が新製品の魔導用具展示即売会のために設けられていることを、完全に忘れているようだった。軽く身を乗り出してみれば、ゆっくりうごめく人の頭の向こうに、屋外闘技場のそそり立つ壁が望めた。
「蟻じゃないんだから、ぞろぞろぞろぞろ行進すんじゃねーっつの」
さすがに小声で悪態をつけば、薬草を紫色の細いリボンで束ねつつバニーが応える。
「仕方ないわよぉ。今日の闘技会は天覧試合、陛下の名代でメイがご臨席なさるんだもの」
どこかうっとりしたその声に、ネーナはため息を返した。
トランティア女王国現在の王太子が、二十四歳になるガリオン・メイ。メイはある特定の条件を満たした太子に与えられる尊称で、様や殿下といった敬称は必要ない。
母系で継ぐトランティア王家にあって、史上三人目の男の太子である。滅多に人前に出ないが美男子であることで有名な王子だけに、闘技会のチケットが即日完売したのも無理はなかった。
しかしだからといって、自分がいま寒さをこらえつつヒマを持て余しているのは納得できない。腹が立つほどの寒空の下、モノはいいが買い手の少ない大鍋を見張る作業は果てしなくくたびれる。日が暮れるまで座っていたら、尻もしびれてカチコチに凍ってしまうだろう。
「だから休日手当てが高いんだな! くそぅ、組合長が直々に出張るなんてきっとおもしろいことがあるにちがいないと踏んだのに」
昨年のこの日は、集合住宅の自分の部屋で爆睡していた覚えがある。一昨年はまだ新人だったので、仕事があることすら知らなかった。年末にあらためて同僚にどういう業務になるのかと尋ねたら、皆奇妙な笑みで「需品課の一員ならば是非その目で見るべき素晴らしいイベントだ」という旨で口をそろえた。無垢な生贄を逃すような心ある職員が皆無だっただけのことだと気づいても、後の祭りである。
口汚くつぶやくネーナの肩に手をついて、バニーがころころと笑った。
「ネーナったら、おバカさんねぇ。ほら、お客様第一号よ」
太くたくましい指が示す先に、茶色のコートを着た男が立っていた。テントの入り口あたりを見渡し、なにか探している様子だ。
「ふぅん……ほんとにいるんだ、客」
仕方なく重い腰を上げ、ネーナは肩を回した。石像にでもなった気分だ。
男はコートと同色の鍔なし帽をかぶっていて、砂色の襟足がわずかにはみ出ている。探し物があるなら案内しなくちゃならんな、と思って見ていると、男と目が合った。
「あ、お願いできますかぁ?」
やけに間延びしたしゃべり方だ。お願いされたくはないが、拒むわけにもいくまい。それでもぎこちない営業スマイルで応じる。
「なにかお探しですか?」
お探しだから呼ばれたのはわかっているが、常套句だから仕方ない。ネーナの醸す白けた空気に、だが彼は気にした風でもなく、髪と同じ砂色の目を細めて微笑んだ。その眦はやや垂れ気味で、左の目尻に泣きボクロがちょんと乗っている。
「武具の類はないですかぁ? 細工深度の高いやつがいいんですけど」
その言葉に、ネーナは思わず男の姿を上から下までまじまじと見た。
線の細い女顔、ひょろっとした体格。彼が魔術師の正装をしてもまったく似合わないだろうに、武具が必要とはさらに意外だ。
「え、っと……どれくらいですか? その、法界深度とか、予算とか。実戦用――じゃないですよね」
壁の飾りならともかく、魔導処理された武具を実戦に用いる人種は限られる。というよりも、黒竜騎士か、白鷹騎士団の魔剣士くらいなものだろう。銀狼騎士の線もなくはないが、前の二人種と異なりガチガチの女王信奉者かつ戦争屋である彼らが、騎士団の支給品以外を携行するという話は聞いたことがない。わざわざ自腹を切ってバカ高い武具を、しかも女王から賜るそれでは足りないといわんばかりに買い求める必要がないからだ。
ネーナがよほど怪訝な顔をしたからか、男は眦ばかりか眉尻まで下げて苦笑を浮かべた。
「いまのところ使う予定はないですけどぉ、せっかくだから。法界深度は高ければ高いほど、予算はそれに応じてってところかなぁ」
なにが「せっかくだから」なのかは不明だが、客がそういうならこれ以上の詮索はできない。そもそも一定以上の細工がなされた品物は、ネーナの手に負えるものではない。
どうやら男は上客のようだと気を取り直し、ネーナはテントの中を振り返りながら答えた。
「多分、奥にあると思います。組合長がご案内するので、少々お待ちいただけますか」
だが奥の陳列台の前に丸々とした背中を確認し、首を戻すと、そこに男の姿はなかった。
「え? あれ?」
あわててあたりを見回すが、広場に向かって進む群集の行列があるばかりだ。ネーナは唖然としてつぶやいた。
「冷やかしかよ……」
なにがしたかったんだ、あの客は。一瞬でも真面目に応対しようとした自分がバカみたいだ。
その憂さをバニーの背中を殴りつけて晴らし、両手を振り回して嫌な客だったと訴えると気が済んだ。
「第一号があれって! ヘンな客ッ!」
「魔術師なんて、みんな大抵ヘンじゃない。さ、行きましょ」
「どこへ」
人型の小山を見上げると、それはテントに入ってくる眼鏡の青年を指差していた。薄日に淡い金髪がきらきらと光っているのが、遠目にも見てとれる。
「あれ、ジール……? 朝、会わなかったけどな」
「いいじゃない、いま来てるんだから。彼に店番を押しつけてあったかいものでも食べましょ。それから闘技場へ行っちゃうのよ」
バニーのウィンクは怪物も逃げ出しそうな迫力だったが、ネーナはとにかく腰を上げてうなずいた。
「組合長のお守りは秘書に任せろ、これ常識」
初めて聞いたがありがたい常識である。
ネーナは足音を忍ばせ――そんな必要はなかったが――そっとテントを抜け出した。
人の波に乗って流され始めたとき、背後から義父の悲しげにわめく声が聞こえた。